近つ飛鳥 叡福寺「近つ飛鳥」という地名は、712年口述筆記された「古事記」に記載があります。履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けたときに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたといわれています。 「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさします。 近つ飛鳥には数多くの天皇・皇族クラスの古墳があり、『近つ飛鳥』、『王陵の谷』とも呼ばれています。 そして、その中心となるのが、梅鉢御陵と呼ばれる、敏達・用明・推古・孝徳の各天皇陵と聖徳太子御廟です。 今回は聖徳太子が眠る叡福寺の聖徳太子御廟に注目してみました。 これが以前、叡福寺へ行った時に写メールで撮ったの聖徳太子御廟です。 切石作りの横穴石室の奥に聖徳太子の母である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の石棺、手前には太子自身とその妃である膳郎女(かしわべのいらつめ)の漆塗りの棺が棺台の上に置かれています。 私最も気になったのは、聖徳太子が母の穴穂部間人皇后と一緒にお墓に入っているだけでなく、もう一人の膳郎女と一緒に眠っているところです。 聖徳太子には妻が4人いたはずです。 一番初目に結婚したのは蘇我馬子の娘で刀自古郎女(トジコノイラツメ)です。 廐戸と蘇我馬子との強い絆でした。 長男はあの山背大兄皇子です。 後に、蘇我入鹿によって斑鳩寺で女子供を含む一族皆殺しにあった事件はあまりにも有名ですね。 二番目に結婚したのは推古天皇と敏達天皇の娘で菟道貝蛸皇女(ウジノカイダコノヒメミコ)です。 彼女は廐戸正妃となったただ一人の人です。 廐戸と推古天皇との絆のための結婚だったのかもしれません。 大王の血筋で本来、大王になる人に嫁ぐつもりだったのかも知れません。 廐戸皇子にも大王になって欲しかったのかもしれませんね。 残念ながら子供はいなかったようです。 三番目に結婚したのは膳部臣加多夫子(カシワデノオミタカブコ)の娘菩岐岐美郎女です。 つまり、聖徳太子と一緒にここ叡福寺に眠る膳郎女そのひとです。 もちろん、この結婚も前の二人、刀自古郎女や菟道貝蛸皇女同様まったく政略結婚ではなかったとは言い切れません。 しかし、当時の倭国の最大の権力者は蘇我馬子と推古天皇。 その二人に比べれば膳部臣の力は比べ物にならないくらい小さいものでした。 ということは、もっとも政略結婚的な要素は少ないはず。 しかも、廐戸が後年、多くの妻や子供達と一緒に暮らしたのは法隆寺のある斑鳩宮です。 その地域一体があの膳部臣の勢力範囲だったということは、まさに膳郎女つまり、菩岐岐美郎女をもっとも愛していたという証拠だったのではないでしょうか。 そして、廐戸はその最も愛していた菩岐岐美郎女と一緒に永遠の眠りについたというのは一番自然だったのかもしれませんね。 廐戸と菩岐岐美郎女は一日違いでなくなっています。 病に苦しむ廐戸を献身的に看病し、最後を看取った後疲れが体を蝕み菩岐岐美郎女も後を追うように亡くなったといわれています。 また、一説には後を追って自殺したとも、また毒殺されたという説まであります。 今となっては真実は闇の中ですが、謎を残したまま天国で二人は手を取り合って今の私たちを見守っていて下さっているのかもしれませんね。 そんなことを思いながらこの叡福寺を歩いていると、廐戸皇子の菩岐岐美郎女への愛情が伝わってきたりして嬉しい気持ちになってしまいます。 四番目、つまり最後に、廐戸皇子と結婚したのは橘大郎女です。 若くて亡くなることになった菟道貝蛸皇女が自分がなきあとの推古天皇と廐戸の絆がなくなることを心配して、推古天皇の息子尾張皇子の娘である、橘大郎女と廐戸の結婚を望み、それを遺言になくなったそうです。 菟道貝蛸皇女は血筋では廐戸よりも上だったので大変誇り高い女性だったようです。 また、刀自古郎女が多くの子供達を産んだので大変嫉妬深くもあったようです。 しかし、亡くなる直前には廐戸と橘大郎女の結婚を望んだことから、心から廐戸を愛していたことがうかがい知れます。 廐戸の後ろ盾の推古天皇を放したくなかったのでしょうね。 さて、廐戸は大変理想主義者だったのがその家族への考え方にも現れています。 後年、斑鳩宮で刀自古郎女、菩岐岐美郎女、橘大郎女とその子供達と一緒に暮らしています。 通い婚中心の当時では考えられないことです。 廐戸は家族への愛情も大変深い方だったということが分かりますね。 しかし、それが裏目に出たのが廐戸の亡くなった後に起こってあの一族皆殺しの悲劇に繋がるとは思いもよらなかったのかもしれません。 蘇我入鹿は山背大兄皇子(聖徳太子の長男)を襲い斑鳩宮に火をかけます。 山背皇子とその家族は一旦は生駒の山へ逃げますが、逃げ切れずに焼け果てた斑鳩宮へ戻りそこで自殺をして果てます。 ここに、廐戸の血を引く皇子、皇女は一人残さず命を絶つことになります。 なんと怖ろしいことでしょう。 後の人々はその悲劇を悼み、今でも法隆寺(斑鳩宮)を聖徳太子とその一族の鎮魂の意味を含めて祈るのでしょうね。 私は子供の頃、法隆寺の近くに住んでいました。 そして今、近つ飛鳥の叡福寺からそんなに遠くないところに住んでいます。 どちらも大好きなお寺です。 時々、そういう大好きなところへ出かけていって心静かにいろいろな思いに耽るのも私にとってとても、楽しい時間なのです。 |